初演から約2年。 禺伝が戻ってきました。
刀ステの再演は初演との違いを叩きつけてくるため情緒と思考力をかき回されるのを覚悟していたのですが、それでも甘かったです。
再演の禺伝は、初演と同じ美しい地獄でありながらまったく違う景色を見せてくれました。 同じ物語のはずなのに、見えるものが変わっていた。 そして、禺伝という作品の立ち位置そのものが、根底からひっくり返ったような心地でした。
この記事では、初演と再演の違いを中心にまとめていきます。 初演の細かい内容については、こちらの感想記事をご覧ください。
⚠️ この記事は再演のネタバレを含みます。 観劇前・配信前の方はご注意ください。
禺伝 再演で何が変わったか:全体の印象

まず全体の話から。
再演を観て最初に思ったのは、全員の殺陣の迫力が増した、ということです。
初演の禺伝の殺陣は「流麗な舞」のようでした。
女性キャストだからこその、境目のない流れるような動きで、源氏物語という平安の麗しい物語によく合っていました。
それが再演では、明らかに重量感が増しているように感じられました。
重心が下がって、刀を振り下ろした後にピタリと止めているからでしょうか。
流麗さは残しつつ、剣戟のスピードも迫力も上がっているようでした。
ただでさえ恰好よかったのに、なんで天井知らずで格好良くなってるんですかね。
そしてもう一つ変わったこと。 台詞が増えていました。
具体的には、各刀剣男士に付与された「偽りの逸話」から来る台詞が増えていた。
初演よりも、誰の逸話を被せられているのか分かりやすくなっていたんです。
「台詞が増えてよかった〜!」と素直に喜べれば良かったんですが、 残念ながらそうはいかない理由があります。
それについては次の章で。
禺伝本丸も、円環を巡っている
再演でもっとも衝撃を受けたシーンのひとつが、 一文字則宗の三段突きでした。
初演では、則宗は三段突きができませんでした。
「骨のない逸話はこの程度か」と、自虐とも取れる台詞を言っていた。
沖田総司の刀という偽りの逸話を持ちながら、 その逸話の核心である技が、うまく使えなかった。
それが再演では、三段突きが成功していました。
この違いが意味するのは何か。
刀ステシリーズには「刀ステ本丸は同じ時間をくり返している」という前提があります。 悲伝で山姥切国広と三日月宗近の戦いに初日と大千秋楽では変化があったように。
虚伝で初演と再演では歴史上の人物が少しずつ違和感を覚えていったように。
末満さんが「ファンが円盤を繰り返し見るたびに三日月は円環を巡っていく(意訳)」と言われていましたが。その通りに何度もくり返す中で、少しずつ記憶が蓄積されていくのでしょう。
初演でも初日から大千秋楽にかけて、偽りの逸話から来る台詞が少しずつ増えていきました。
例えば一文字則宗は「守るため〜千年経ってもそれは変わらぬ…とでも言っておくか」という小烏丸台詞を引用する形で表していました。
つまり禺伝本丸は、刀ステ本丸と同じように時間をくり返している。
そして再演ではその状態がさらに進んでいる。
「台詞が増えた」という事実が、その証拠でもあるんです。
手放しで喜べないのはそういうことです。
また一文字則宗が三段突きができるようになったのは「心伝で沖田総司が菊一文字を使ったことで、則宗に新たな物語が付け足されたから」ではないかと思っています。
心伝では本来はありえないはずだった奇譚となる逸話・物語を「つけ足した」もしもの世界が描かれました。
一文字則宗が沖田総司のことを語るとき、初演ではシルエットだった沖田総司がはっきりと「心伝の沖田総司」であったこともこの解釈を後押しします。
心伝については、こちらの感想記事もどうぞ。
新選組推しの自分が夢に描いたような世界に号泣した作品です。
一つの作品としても最高なので、良ければぜひ見てください。
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キャラクター別:初演から変わったこと
台詞の変化や立ち位置、細かい仕草まで、初演と見比べて気になったところを刀剣男士ごとにまとめます。
全体として「偽りの逸話がより深く馴染んでいる」印象でしたが、変わらないものもあって、そこがまた良かった。
一文字則宗
三段突きの話は上で書きましたが、もうひとつ大きな変化がありました。
初演では御前(一文字則宗)が「皆の衆、誉を上げろ!…と言いたいところだが」と言って、 山鳥毛に場を譲る場面がありました。
先代として一歩引いた、余裕のある立ち位置でした。
再演ではその台詞がなく、則宗が自ら前に出て猛々しく吼えながら戦っていました。
現実にはいない紫式部の悲しみを背負って源氏供養を終わらせようと、「自分が」戦うという意思が全面に出ていた。
格好いいのはもちろんなんですが、切ない。
それと、敵の思惑に対してニヤリとする一瞬前の「クッ」という表情が、 はちゃめちゃに好きです。
自分に画力があれば描き残して額縁に飾っているところです。
歌仙兼定
光源氏になった瞬間のライティングが、牡丹の花のように見えました。
歌仙のイメージカラーに合わせた演出だと思います。 美しすぎて息を止まるやつですね。
大倶利伽羅
源氏の家来たちに追われる場面で「クソ!足が長い!」という台詞があって笑いました。 「逃げ足が速い」の意義語として秀逸すぎる。
でも何より言いたいのは、大倶利伽羅は今回も伊達男でした。
女性が襲われそうになると真っ先に助けに走る。
それは偽りの逸話を与えられた再演でも変わらない。
「伊達男である」というのは骨の髄まで刻まれた本来の姿なんだと、改めて確認しました。
南泉一文字
可愛い。ただただ可愛い。
ストレスが溜まると爪研ぎをして、悪夢を見た後はふみふみして。
姫鶴に首根っこをつかまれたり、山鳥毛に叱られた後は姫鶴のそばに座ってしょんぼりしたり。
猫みが増したのかなとすら思ってしまう。
ただ、可愛いだけで終わらないのが禺伝の南泉なんですよね。
歌仙は元主が源氏物語について深い造詣があることから解説役を担っていました。
南泉は「知らない」「分からない」という立場で、観客の目線に近い存在かと思っていたんですが、よく考えるとおかしいんですよね。
南泉は本来なら徳川家由来で徳川美術館に籍があり、そこには源氏物語絵巻も所蔵されているためまったく知らないはずがない。
南泉が小夜左文字の物語を付与されたということは徳川家には渡らず、細川家からさらに黒田家に渡った刀ということになります。
歌仙と同じ細川家にあったなら、やはり知らないのはおかしい。
物語の展開の都合、というには違和感が残ります。
禺伝の癒し枠が「黒田の刀」にされているというのも、なかなか思うところがありますね。
初演の解釈が変わったこと・確信に変わったこと
ここからは、初演で自分が立てた解釈が再演でどう動いたかの話になります。
確信に変わったものもあれば、正直まだ受け入れられていないものもあります。
桔梗紋がなかった
初演では、歌仙に関するライティング演出で、 ガラシャの紋である桔梗紋と、忠興の紋である九曜紋が重なりながらも、桔梗紋が消えなかった。
自分はこれを「歌仙がガラシャへの思慕を消さずにいる」と解釈していました。
本来の主である忠興のことを思い出した後も、たま様への愛を捨てられないと。
再演を観て、確認したところ、桔梗紋がありませんでした。
1・2回目の観劇は1階席の前方で、フラットな位置からだったので 「まさか?」と思っていたんですが。
大千秋楽では段差のある後方席からライティングを確認できました。
足元のライティングもバックスクリーンにも九曜紋が映し出されていましたが、 桔梗紋は出ていなかった。
これが何を意味するのか。
初演では、歌仙の中にある「元の主への意識」がガラシャと忠興の両方だった。
再演では、忠興の方に意識が向きやすくなっているのかもしれない。
禺伝本丸が時間をくり返す中で、歌仙の中で少しずつ変化が起きているのかもしれませんね。
偽りの逸話が馴染んでいくことで逆に、本来の逸話が前に出てきた、ということもあり得ます。
まだ推測の域を出ませんが、この変化は確かにありました。
自分は桔梗紋が残っていたことに綺伝のガラシャ様を思って少し救われた気持ちでいたので、正直どう受け入れたらいいかまだ分かっていない状態です。
歌仙と則宗の対比は、確信に変わった
初演で自分が立てた解釈があります。
歌仙と則宗は、偽りの逸話だと分かっていても、愛することを選んだ刀たちだ。
再演を観て、これは確信に変わりました。
どれだけくり返しても、彼らは偽りの元の主を愛し続けている。
偽りの物語が身体に馴染んでいくことすら、もしかしたら悪くないと思っているかもしれない。
「強さとは愛、愛とは鎖」と言い放つ則宗が、 三段突きを成功させた事実の重さは、そういうことではないかと思っています。
脚本の精緻さに震えた:小少将の君の「南無阿弥陀」
これは細かい話なんですが、うなってしまったので書きます。
作中で小少将の君が「南無阿弥陀」と唱える場面があります。
この「南無阿弥陀」を唱える浄土宗が成立したのは、平安末期です。
紫式部が生きたのは平安中期。 本来なら小少将の君がこのお題目を知るはずがない。
あの世界が、本来の平安時代ではないことを、台詞一本で静かに示しているんです。
初演の感想のときにも矛盾の数々について書かせてもらいましたが、脚本家の末満さん、本当にどこまで仕込むんですかね。
禺伝本丸は、外伝じゃなかった

再演で最も衝撃を受けた話をします。
初演との違いを積み重ねていくうちに、禺伝という作品の立ち位置そのものが変わって見えてきました。
ここからは考察寄りの内容になるので、ご承知おきください。
反転した世界、そして正史へ
禺伝は初演と再演とは左右が反転しています。
登場場面もはける方向も、盆の回転もほぼすべてです。
例えば大倶利伽羅が小少将の君を助けに来る場面は初演は左側の下手側からでしたが、再演では上手側から助けに入っていました。
空蝉に歌仙が説得を諦めたときにずっこける一文字則宗と南泉の立ち位置も反対、歌仙と山鳥毛たちの立ち位置も反対。
光源氏に浸食された歌仙に呼びかける南泉の立ち位置も初演と違う下手側。
そして分かりやすいのが、最後の歌仙の立ち姿のポーズも本来とは逆でした。
舞台の上手と下手は、歌舞伎などで、身分の高い役を上手、低い役を下手(下座)に配置したことに由来します。
舞台の意味として上手側から来るのは「身分が高い人」翻って「優勢」であったり「主人公側」の立ち位置とも言えます。
そして物語において劣勢な人物や敵役は、下手(外)から登場するのが定石となります。
ここまで反転しているのは明らかに意図したものでしょう。
元々禺伝の初演は刀ステ本丸とは反転した世界観でした。キャストの性別も、傘の回し方も逆。
それがさらに反転したということは、刀ステ本丸と同じ方向を向いた、ということになります。
そしてもう一つ。
刀ステには「右回りに回ると物語が前進し、左回りになると円環を巡る」というお約束があります。
再演では歌仙や一文字則宗たちが右回りの盆で登場していました。
反転、そして右回り。
これを重ねると、再演の禺伝本丸は正史の流れに入ったと読むことができます。
そしてその正史の流れの中で、今作で初めて明かされた事実がありました。
禺伝本丸の主が、黒田官兵衛だと判明しました。
刀ステを履修している方なら、この名前を聞いて「え?」となったと思います。
刀ステシリーズにおいて、黒田官兵衛とは何者か。
簡単に言うと、刀ステのラスボスに最も近い人物です。
詳しくは以下の作品をご覧いただきたいのですが、
ジョ伝で最初に黒田官兵衛と出会ったとき、 自分は「歴史上の策士のひとり」くらいにしか思っていませんでした。
ラスボスの片鱗なんて全然感じなかった。
でも綺伝・単独行と進んでいくにつれて、その印象は変わっていきます。
そして再演の禺伝で、禺伝本丸の主が官兵衛だと分かった瞬間、 過去の作品と禺伝がすべて繋がった感覚がありました。
そして末満さんが再演を観る前の「履修おすすめの1本」として、 禺伝初演や虚伝ではなく単独行を挙げていた理由が、再演を観て分かりました。
禺伝は初演の時点では「外伝的な立ち位置」だと思っていました。
刀ステ本丸の物語とは別の、サイドストーリー。
でも、禺伝本丸の主が黒田官兵衛だということは、 刀ステ本丸にとっての最大の敵対者が、禺伝本丸の主となる。
本当に禺伝本丸の主が今までの黒田官兵衛と同一人物なのかはまだ分かりません。
しかし禺伝本丸と刀ステ本丸は、演練の手合わせで顔を合わせたこともある。 縁が結ばれてしまっている。
これは対立に発展する可能性が、もうゼロではなくなりました。
ただ、自分はここで一つ別の可能性も論じたいと思っています。
ジョ伝→綺伝→単独行と、刀ステシリーズにおける黒田官兵衛は作品を重ねるごとに人間から逸脱していきます。
ジョ伝では時間操作の存在に気づき利用しようとした策士。
綺伝では複数の時間軸の自分を認識し始め、「歴史は物語へ、物語は歴史へ」と語る人物。
単独行では朧となり、普通の人間を超えた存在になっていた。
では禺伝本丸の官兵衛はどこに位置するのか。
禺伝の歌仙は「本丸に帰ろう」と言い、黒幕の思惑を見逃したことについても「主は分かってくれる」と言っています。
つまり刀剣男士たちは官兵衛を慕い、信頼している。
これは朧となる前の、あるいは別の選択をした別の時間軸の官兵衛である可能性があります。
綺伝で官兵衛自身が「別の時代の別の時間軸のわしと出会ったことがあるかもしれない」と言っていました。
複数の官兵衛が存在しうることは、作中で既に示唆されているんです。
ここまで考えると、一つの仮説が浮かびます。
円環から抜け出す正規ルートには、刀剣男士に慕われる官兵衛が存在する世界線が必要なのかもしれない。
禺伝本丸が正史の流れに合流する形で、対立ではなく協力する未来として。
正直に言えば、これは願望も混じっている考察です。
禺伝本丸の刀剣男士たちと敵対する未来はあまりにも惜しい。
ただそれを差し引いても、反転・右回り・慕われる官兵衛という三つの根拠は、この方向を支持していると思っています。
そして、もうひとつ大きな情報が解禁されています。
次回作「陽伝」に、三日月宗近・山姥切国広・歌仙兼定らの出演が決定しました。
刀ステシリーズの長年の謎だった「ループする円環から抜け出せるのか」。
刀ステも、刀ミュと同じく、確実に物語の完結に向けて畳みにきています。
禺伝がただの外伝ではなく本編の対岸に立つ作品だと分かった今、 陽伝に向けた準備として禺伝再演がここに置かれた意味が、より重くなりました。
まとめ:再演を観て良かったか

良かった以外の言葉がありません。
同じ物語のはずなのに、見える地獄の景色が変わっていた。
初演で立てた解釈が確信に変わるものもあれば、新しい謎が生まれたものもある。
初演を観ていた人ほど、再演は刺さります。
初演・再演をまだ観ていない方には、配信での視聴をおすすめします。
特に、こんな人に観てほしいです。
- 綺伝が好きで、歌仙兼定とガラシャの関係が刺さった人
- 入れ子構造の重厚な物語が好きな人
- 宝塚OGキャストの演技と殺陣の両立に興味がある人
- 刀ステの「大きな物語」の全容を追いたい人
3月中は初演の禺伝が見放題配信中です。 月額550円のプレミアム登録で見放題になるので、再演の感想記事を読んで気になった方はこの機会にぜひ。
4月以降の配信ラインナップは変わる可能性があるので、最新情報はDMMでご確認ください。
陽伝が来る前に、禺伝で地獄の予習をしておきませんか。




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